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焼酎今昔―H宗六の海

 

 「宮崎県は、夕景がじつに美しい

 

ですね」と、汽車の窓から外を眺めてい

 

た仕事仲間のカメラマンがつぶやいた。

 

私たちの乗った列車は、日向灘(ひゅう

 

がなだ)にそってはしっている。夕陽が

 

尾鈴連峰(おすずれんぽう)に沈もうと

 

していた。秋の空は澄んだ朱(しゅ)色に染めあげられ、山々はかげりを帯びて水色に浮

 

かんでいる。日向灘は濃い群青色にかがやき、波が幾重にもつらなりながらエナメルのよ

 

うに光っていた。「夕景ねらい」という言葉がカメラマンの世界にあって、斜光が風景を光と

 

影にくっきり染めわける一瞬を、ベストショットのチャンスとして彼らは狙う。日豊海岸の

 

夕映えのあざやかさに、私はつねづね深い思いをもっていたが、プロのカメラマンの一言

 

(ひとこと)は、その思いをさらに深めるものがあった。夕景は車窓をながれていく。脳裡

 

(のうり)を、故郷の海をこよなく愛した漁師の友人、宗六の日焼けした皺(しわ)ぶかい顔

 

がよぎっていった。

 

 宗六は私より一回り年上だが、骨組みのしっかりした身体つきは七十を過ぎたいまでも、

 

壮年のころとあまり変わらない。その宗六が「ひき縄釣りにでてみらンかい」と私を誘った

 

のは、三十年ほど前、宮崎県の北の入り江、北浦にある彼の家でトコブシの煮つけをサカ

 

ナに焼酎を呑んでいるときだった。入江からさわやかな潮風が吹きよせ、庭先で水仙が白

 

くゆれていた。台所では奥さんが、チヌをブツ切りにして潮汁をつくっている。「面白そうじゃ

 

ノ。一度たのむワ」私はトコブシの甘辛い味を焼酎で胃にながしこみ、そう答えた。

 

 二ケ月後、真夏の夜半過ぎに私は宗六の船に乗りこんだ。船は三トンの漁船だった。

 

焼玉エンジンがたてるリズミカル

 

な音から、そのころはポンポン船

 

と呼ばれていた。日向灘にでると

 

宗六は船首を南にむけた。暁闇

 

(ぎょうあん)をぬって美々津(み

 

みつ)の沖をとおり、朝の光を浴

 

びる赤江灘をはしった。黒潮にさ

 

からっているので、遠くに見える

 

九州山脈もゆっくり移動していく。

2

 

 太陽はのぼると同時に、圧倒的な光と熱をはなって燃えあがった。空も、海も、浜も、磯

 

の岩肌も、直射日光を粉砕してきらめきたった。水平線に白い城塞のような入道雲がわき

 

あがっている。

 

 宗六は陸では無口だが、海にで

 

ると饒舌になる。とくに漁の話とも

 

なると少年のように意気ごみ、熱

 

っぽく話す。「こん疑似餌はナ、

 

シカの骨をけずって作ったつよ。

 

そいつに二歳駒のたてがみをつ

 

け、鈴までつけたかい、大物が食

 

いつかん訳がねえ」。骨と鈴は水

 

中を走りながら、キラキラ光る。

 

カツオやマグロやシイラは、その閃光めがけて襲いかかる。疑似餌は木綿糸を編んだ丈

 

夫な道糸にむすばれ、道糸は二メートルのワイヤロープにつながり、ワイヤロープはさら

 

にひき縄にむすびつけられる。ひき縄は二百メートルのびるが、舷側から突き出された

 

大人の腕ほどある長さ六メートルの竹竿の先端に、麻紐でゆるやかに固定される。この

 

仕掛けは深みをさぐる。同じような仕掛けがさらに二本、ひき縄の長さを短くして、竿の中

 

ほどと手前から海にながされ、海の中層と上層とをさぐる。「こん疑似餌はネコの骨をつこ

 

うちょる。それにニワトリの羽をつけチみた」「こんやつは犬ん骨よ。それにキジのシッポの

 

羽じゃ」。宗六は竹竿を船の横から突きだし、機関の台座にロープでしっかり固定した。ひ

 

き縄をたぐりよせる三本の麻紐は、艫(とも)にくくりつけられた。作業をする宗六の全身か

 

ら、汗が吹きでていた。シャツは水につけたように濡れ、ハチマキをした赤銅色の顔も汗み

 

どろだった。作業を終えると、潮風がたちまち身体を乾かした。宮崎県南端の都井の岬の

 

灯台が見え、それが水平線に消え、種子島の島影がうかぶころ、宗六は船を反転させた。

 

こんどは黒潮にのって走る。「ひき縄は、釣れんけりゃ縄ひいて一日中走りまわるだけ。

 

退屈なだけじゃ」と宗六は言った。

 

〈そのむなしさに耐えるのも、漁じゃわナ〉というひびきが感じられた。「海から札束を釣り

 

あげるようなもんじゃ」「ひき縄は宝クジ買うのと同じこつよ」。ひとりごちるように喋りながら

 

も、その眼はたえず海に注がれ、手はぬかりなく舵をあやつっていた。にぎり飯を食ったこ

 

ろ、シイラが手前のひき縄にかかった。

3

 

 引きがおそろしくつよいので「万

 

力」とも呼ばれるこの魚は、海中

 

では信じられないほど美しい。黒

 

で潮に金と緑の閃光を描いて暴

 

れまわったが、タモ網ですくいあ

 

げられ、棍棒殴り殺された。潮の

 

香りに血の匂いがまじった。「一貫(四キロ)かの。こん魚は銭にゃならん」宗六はつぶや

 

き、シイラを船底にほうりこんだ。シイラは、さらに二尾釣れた。

 

 船はうねりに乗って進んだ。太

 

陽は西にかたむいたが、すべて

 

を呑みこむような熱と光で、空と

 

海を支配していた。宗六は寡黙

 

(かもく)になり、私は眠気に抱き

 

とられた。そのとき「かかったっ

 

!」。宗六が大声をあげた。太竿

 

の先端が弓のようにしなってい

 

る。宗六は機敏にエンジンを止め、麻紐を引きこみ、ひき縄をつかんだ。魚との力競べが

 

はじまった。宗六の上腕二頭筋はふくれあがり、二ノ腕には筋がうき、毛穴という毛穴から

 

汗が吹きだした。ひき縄をためたり、のばしたり、引きもどしたりしながら、宗六は時間をか

 

けて魚を船にたぐりよせた。波の下に、砲弾のようにずんぐりとした影があらわれた。

 

 「やった! マグロじゃ」と宗六は大声をあげた。六十キロはあるだろう。宗六はマグロを船

 

べりにひき寄せ、右手に手鉤(てかぎ)をつかんだ。波がマグロをあおりあげる。手鉤がう

 

ちおろされた。鉄の爪がマグロの頭にくいこんだ。つぎの瞬間、魚体は爆発のような飛沫

 

(しぶき)をあげて、波間からはねあがった。宗六の腕が絶妙のタイミングで回転した。マグ

 

ロは宙をとび、もんどりうって胴間に落ちた。ホンマグロだった。背から胴にかけては黒み

 

がかった藍(あい)色、腹部は銀色で、光の玉をはじきだしている。全身をバネにしてマグ

 

ロは暴れた。だが、やがて断末魔の痙攣(けいれん)がおとずれ、藍色はますます鮮やか

 

にかがやき、腹部に金や銀、赤や青の光の帯がはしった。やがて尾鰭がたつと、一度は

 

げしく船底を叩いてうごきがとまった。鮮やかな体色が、急速にきえていく。藍色の背は黒

 

ずみ、銀色の腹は灰色にしずんだ。「死に花を咲かせおったナ」と宗六はつぶやいた。

4

 

 北浦の入江にかえったとき、月は中天にかかっていた。魚を港の冷凍庫にはこび、月見

 

草が白く花ひらく浜道を歩いて家にもどり、風呂で身体を洗った。奥さんが起きだして、カ

 

ツオの刺身と白菜漬けと焼酎を用意してくれた。焼酎をコップに注いで、一息で呑んだ。

 

思わず声をあげたくなるほどうまかっ

 

た。「どうじゃ」宗六は笑いながら言っ

 

た。「ウメエじゃろうが。男はしょせん

 

仕事よ。仕事がうまくいきゃ、焼酎もウ

 

メエわい」宗六の頭で、ハチマキの跡

 

が白かった。

 

 宗六のそのときの言葉は、いまも耳

 

朶(じだ)の奥にのこっている。なぜそ

 

れだけ響きに強さがあったのか、いま

 

だに判らない。三十代の私は仕事に迷い、女に迷い、人生そのものに迷っていた。だか

 

ら・・・、だったのだろうか。宗六がなぜあの日、ひき縄漁にさそったかも判らない。しかし

 

仕事にいき詰まったとき、失敗して尻もちをつきそうになったとき、孤独に締めつけられて

 

大声で叫びそうになったとき、宗六のあの日の言葉は不思議と力強く、脳裡によみがえっ

 

てくる。たぶん、人生の箴言(しんげん)だったのだろう。(了)。

 

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